日本一の山城・備中松山城

備中松山城
備中松山城・武家屋敷
備中松山城
備中松山城

市街地の北端にそびえ「おしろやま」の愛称で市民に親しまれている「臥牛山」(標高480m)北から、大松山、天神の丸、小松山、前山の4つの峰からなり、備中松山城は、そのいただきを中心に全域に及んでいる。現在一般に、備中松山城と呼ばれるのは、この内小松山の山頂(標高430m)を中心に築かれた近世城郭を示しており、天守の存在する山城としては隋一の高さを誇ります。

城内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存しており、昭和16年には国宝(昭和25年文化財保護法の制定により重要文化財)の指定を受けています。

また、平成6年度からはこれら重要文化財を中心に、本丸の復元整備が行われており、本丸の正面玄関と言える本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが史実にもとづいて復元されています。

備中松山城の歴史は古く、鎌倉時代(1240年)に有漢郷の地頭に任ぜられた秋葉三郎重信により大松山に砦が築かれたことに始まります。

なかでも天正二年(1574年)に起こった「備中兵乱」時は「砦ニ十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っており、臥牛山全体が一大要塞となっていたことがうかがえます。三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、また、毛利氏が防長二国に退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次・正一(遠州)父子により修改築がなされるなど備中の要衝としての役割を担っていたようです。

以降、、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏、と城主がかわり明治維新を迎えます。

[入閣料300円] 同城管理事務所 (0866)22-1487

二重櫓
二重櫓

大手門
大手門
大手門


« 前のページ:
次のページ: »