備中国奉行 小堀遠州

2012年12月7日 金曜日

小堀

備中国奉行小堀遠州

1600年(慶長5年)の関が原の戦いで毛利氏は広大な領地を徳川に没収され、毛利氏の勢力圏にあった備中国は徳川氏の直接支配知となった。
そして、小堀正次(遠州)の父が備中国奉行として政治を行い、備中松山城を守ることになった。

当時、臥牛山上の松山城は備中兵乱以来有れるにまかされておりふもとの御根小屋も戦火で焼けていたので、正次はやもなく城下の頼久寺を仮の住まいとした。
正次が松山城を守ったのは、松山城が備中の中心にあって戦略的にも重要な位置を占めていたからであり、西国の大名のおさえとしたのである。
1604年(慶長9年)正次が死去し、子の正一が跡を継いで備中国奉行となった。正一は、一般に遠州と呼ばれた。

遠州は武士としても立身出世を遂げたが、多芸多能な天才であり、色々な面で後世に名を残した。

茶の湯に優れ、天下第一の茶匠の地位に上りつめ、武芸茶人の筆頭に挙げられた。その茶の湯は「きれいさび」と評され、将軍家茶道師範名を得て遠州流をおこした。
建築や造園にも天才的な腕を発揮しており、今日でも私達の目に触れることができるに二条城二の丸や江戸城の庭園等数々の建築や庭園がある。
備中国奉行として実験を握った遠州は、備中国だけでなく西国大名をおさえるためにも、荒廃していた松山城を再建した。小松山の中世の山城の遺構の上に近世の城を造ったのである。
また、御根小屋跡に陣屋を建設し、頼久寺からこれに移っている。遠州の建設した陣屋は、小松山の山城に対して下屋敷と呼ばれていた。下屋敷には茶室を造り、庭園を作庭している。
遠州の作った庭は現在も高梁高等学校の中に残されている。

頼久寺

遠州が備中国奉行のときつくったのが頼久寺庭園であり、国指定の「名勝」として知られている。
頼久寺は鎌倉時代の1326年中国の元から帰国した臨済宗の高僧、寂室円応禅師が開山したと伝えられている。足利尊氏が諸国に命じて建立させた安国寺の一つである。
1509年、この地を領した上野頼久が修復して寺が一新したので、その子頼氏が父の名を寺につけ頼久寺となった。その後、備中兵乱で頼久寺は焼失し毛利輝元が再建したのが現在の頼久寺である。
この庭は一般に鶴亀の庭と呼ばれている。禅院式蓬莱庭園であり、安土桃山時代から江戸初期のかけての典型的な書院式枯山水の庭園として知られている。はるかに望む愛宕山を借景にし、庭一面に敷きつめた波紋のはき目のある白砂は大海を、中央にに石組みで鶴島、やや後に亀島を、そして書院から左手の皐月の大刈込みは大海の波を表現している。
頼久寺には遠州自筆の制札や遺品が保存されており、1339年の西念勧進による石燈篭もある。