二人の内蔵助・大石内蔵助腰掛け石

大石内蔵助腰掛け石  

備中松山城登山道の途中に、大石内蔵助の腰掛け石がある。

高梁の基礎をつくった水谷三代”の三代目、勝美が元禄六年(一六九三)三十一歳の著さで急死、継子も十三歳で亡くなったため、幕府は水谷家を断絶、所領没収という報われない結果となった。徳川幕府の時代、大名の改易は大事件であり、お家断絶となれば城も領地も明け壊さなければならない一歩間違うと、改易を不満とする旧藩士たちが討ち死に覚悟でろう城という事態もあり得、合戦も予想される。

幕府の命で城を受け取る側も大変なことであった。

城受け取りの役は、赤穂藩主、浅野長矩に命じられた。

七年後、長矩は江戸城内で高家、吉良義央に斬りつけ、お家断絶、所領没収という同じ悲運をたどる。しかも八年後、吉良邸に討ち入り、亡君の仇を討った家老、大石内蔵助良雄が長矩に従って松山城の収城をとり仕切ったというから、歴史のめぐり合わせは、皮肉なものだ。赤穂藩は大石を先鋒、長矩を総大将に多くの軍勢で松山城下に乗り込む。

水谷の城方は家老、鶴見内蔵助以下約千名が城内にあり、殺気立った雰囲気。強引に城に入ろうとすれば武力衝突の恐れもあったそこで大石は平服、供の者も連れず鶴見内蔵助と面会、平和的に城を明け渡すよう説得を続け、二人の内蔵助の息も詰まるような話し合いの末、開城に応じることになったという。

備中松山城の登城の途中には大石が休んだといわれる腰掛石が残っている。二人の内蔵助の模様は、NHK大河ドラマ「元禄繚乱」で、平成11年3月28日に放映された。


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