備中松山城(岡山県高梁市)
市街地の北端にそびえ「おしろやま」の愛称で市民に親しまれている『臥牛山(標高約480M)』。北から「大松山」・「天神の丸」・「小松山」・「前山」の四つの峰からなり、南から見た山容が、草の上に伏した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれており、備中松山城はその頂を中心に全域に及んでいる。
現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の小松山の山頂(標高約430M)を中心に築かれた近世城郭を指しており、天守の現存する山城としては随一の高さを誇っている。城内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存しており、昭和16年には国宝(昭和二十五年文化財保護法の制定により重要文化財)の指定を受けています。この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応2年(1240)に有漢郷(現在の高梁市有漢町)の地頭に任ぜられた秋葉三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まる。その後、小松山に移り、城の縄張りは時代と共に変化しますが、なかでも天正2年(1574)に起こった「備中兵乱」時は「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っており、臥牛山全域がー大要塞となっていたことがうかがえる。
当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が防長二国に退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次・正一(遠州)父子により修改築がなされるなどなど備中の要衝としての役割を担っていたようだ。以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えますが、現存する天守などは天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられている。
「城までのアクセス」JR伯備線 備中高梁駅下車 徒歩約1時間30分またはタクシー「ふいご峠駐車場」下車徒歩約20分。岡山道賀陽ICから車で25分「ふいご峠駐車場」から徒歩約20分。
大和高取城(奈良県高取町)
大和高取城は奈良盆地と吉野地方との間に障壁のように連なる山塊中の高峰にあり、近世の山城としては異例の高さと規模を有し、標高583.9m、全国で最も比高(山頂と麓の高低差:城の入口黒門から390m、城下町の中心札の辻から446m)があり、中世の山城(カキアゲ城)が築かれて以来幕末まで600年余りの歴史を持つ。その規模において日本一の山城である。
大和高取城は南朝の雄、越智邦澄が高取貝吹山に築城したのがルーツとされ、今も越智居城跡が残っている。その後高取城は、越智氏失権後1580年代に豊臣秀長の重臣、本多氏によって本格的な近世の山城として、整備された。その様式は山城式に平城式手法を加えた山平城様式で大天守と小天守、27の櫓、33の門を持つ壮大なものであった。続いて藩主となった美濃源氏の流れをくむ植村氏は幕末まで14代234年間藩政を司り、幕府の要職(老中格)を勤めている。
「城までのアクセス」近鉄吉野線壺阪山駅下車、城下町・大手筋を経由して徒歩で約1時間40分。または、途中壷阪寺までバスで約10分、そこから徒歩で約50分。
美濃岩村城(岐阜県恵那市岩村町)
美濃岩村城は木曽山脈の懐に抱かれた高原盆地にある。標高717mの全国で最も高いところに天然の峻剣な地形を利用して、築城された。加藤景廉による創築後、戦国時代には遠山、秋山、川尻、森、近世には大給松平、丹羽、大給分家松平と城主が変わりながらも、幕末に至るまで連綿として続いた、他に例を見ない長い歴史を持つ名城である。
戦国時代には武田、織田、徳川の勢力がぶつかりあう境目の地として争奪の対象となり、幾多の戦乱の舞台となった。元亀3年の甲斐武田軍の侵入のときには、城主遠山景任が没した後、その妻が事実上の城主として采配をふるった。女城主とは彼女のことである。
現在見られる岩村城の遺構は、主として関ヶ原合戦後の慶長6年に入封した松平氏によって整備されたものである。本丸、二の丸、八幡曲輪、出丸などの曲輪が自然の地形を生かして巧みに配置され、要所に櫓11基、多聞8基、門17ヶ所などが構えられた。中でも、大手門脇に建てられた唯一の三重櫓(橋櫓)は、城下の本通りの正面に築かれ、天守に代わる象徴的な櫓であった。
「城までのアクセス」JR中央線恵那駅下車、明知鉄道に乗り換え岩村駅下車徒歩約40分。車の場合は城山山麓の歴史資料館前に駐車し徒歩約20分(普通車は山頂にも駐車場有)。
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